塚本明里さんインタビュー

Vol.1

登場人物「夏海」のモデル

「岐阜のすべてが、私に元気をくれる」

 かつて岐阜・柳ケ瀬で活動していたご当地キャラクター「やなな」の広報を務め、現在では、岐阜のご当地タレントやモデル、また可児市ふるさと広報大使や患者会代表など多岐にわたって活動している塚本明里さん。難病を発病した学生時代。精神的にも肉体的にも辛い時期であるときに出会った「やなな」から、人を楽しませることや地元を愛することの大切さを学んだという。高校時代から、やななスタッフ、そして現在。挑戦し続ける彼女の姿に迫ります。

塚本明里宣材写真

Q.タレントやモデルだけでなく、可児市ふるさと広報大使や患者会代表など多岐にわたって精力的に活動されている塚本明里さんは、現在3つの難病(筋痛性脳脊髄炎/線維筋痛症/脳脊髄液減少症)を抱えていますが、初めて症状が現れた時の様子を教えてください。

A.高校2年生の5月。学校でテストを受けている時に突然でした。頭の血がさーっと下がるような感じがして、目の前が真っ暗に。動けなくなり、そのまま机の上に突っ伏してしまいました。担架で保健室に運ばれて、そして親に迎えにきてもらいました。高熱が出ていたので自宅近くの病院にすぐ連れて行ってもらいました。その時の診断は風邪だろうということでした。3日ほどして熱が下がり、やっと学校に行けると思って、いつものように電車で通学したのですが、途中の駅でまた身体が動かなくなってしまい、学校にたどり着けなかったのです。自力で通学できなくなってしまった、しかし、どうしても学校に行きたくて母にお願いして、車で送り迎えをしてもらって通学を始めました。

柳ケ瀬商店街にある「ひとひとの会」事務所にてインタビュー

〈柳ケ瀬商店街にある「ひとひとの会」事務所にてインタビュー〉

Q.体調が悪い中、無理にでも学校に行きたいと思ったのはどうしてですか?

A.1番の理由は学校が好きだったからです。友達と話したり、授業を受けたり、部活動したり・・・・学校生活のすべてが大好きでした。そして大学に行きたかったのですが、推薦で行こうと決めていました。そのためには欠席日数が増えてはいけないとの思いがありました。大学に行きたかった理由は、中学生の頃は単純に大学でのキャンパスライフに憧れていただけだったのですが、ある時ちょっとしたきっかけで大きな目標が出来てどうしても大学に行きたくなったのです。それは、高校一年生の時に、万博(2005年、愛・地球博)の、あるパピリオンでの大型モニターでみた映像です。内容は、「世界の小麦の生産量は世界のすべての人々の食を満たす量は生産されている。しかし、流通に偏りがあるために小麦が手に入らず飢えに苦しむ人がいる」というものでした。小麦が足らなくて飢えが起きるのだと思っていた私は驚きました。「流通にかかわる貿易の仕事がしたい」。そのために国際貿易を学びたいと強く思い、大学に行きたかったのです。

Q.この時すでにやりたいことが決まっていたのですね。進学をした大学ではどのような生活を送られましたか。

A.高校3年生の11月に「筋痛性脳脊髄炎(当時は慢性疲労症候群と呼ばれていた)」と「線維筋痛症」の診断を三重県久居市にある大学病院で受けたのですが、病状が悪化していて、大学は入学式も行くことができず休学しました。
 慢性疲労症候群という病名でしたので「1年くらい休学して療養すれば治るかも」と軽く考えていました。ところが慢性疲労症候群は診断された患者の3割が寝たきりである恐ろしい病だと後に知りました。そして「線維筋痛症」も医師にもあまり知られていない病でした。大学教授の先生が「岐阜県から三重県に麻酔治療に通うのは大変だろうから自宅近くの麻酔医の先生を探しなさい。(私には麻酔治療は有効でした。患者さんによっては効かない人もいます)」と言っていただいたのですが「線維筋痛症」の治療をしてくれる麻酔医はなかなか見つかりませんでした。「線維筋痛症に麻酔は打つ必要はない」と言われたり、やっと治療して下さる医師を見つけても毎日のように通う私に看護師が「もっと我慢して頑張りなさい」と背中に活を入れる意味で、はたかれたり。今、治療して下さる竹田先生は「毎日でも通っても大丈夫です。我慢しないでください」と言ってくださり、安心して通っています。竹田先生を見つけるまで6人の医師にかかりました。診断まで16名の医師にかかり、後に「脳脊髄液減少症」の診断治療にかかるまでに2名の医師にかかりましたので、計24名の医師にかかったことになります。私だけでなく、この病気の患者さんは治療して下さる医師探しに皆さん苦労していると聞いています。 

Q.病気を理解してもらえないというのは、言葉に出来ないほど苦しいですね。初めから大学を休学されたということですが、当時の心境を教えてください。

A.同級生は大学に通っていたり、社会人になっていたりで、自分は置いて行かれたと感じて本当に悔しかったです。やはり大学に行って、テレビや雑誌に出てくるようなキラキラの女子大生としてのキャンパスライフを送りたかったです。もし行けていたら、講義を受けたい、大学の友達を作って一緒に学食を食べたい。“普通の女の子の生活”がしたかったです。この時期くらいに、母とのちょっとしたケンカをしたことがあって、名古屋でアイドルグループの設立メンバー募集のテレビ番組を観て、母に「応募してみる?」と聞かれて、「この体調でそんなのやれるわけない!」と、むきになって言ってしまったのです。母は、もともと何でもやってみたい性格の私が病気でできないことを悔しく思っていると感じ取って言ってくれたのだと今なら思えます(笑)。
 また、病気を発症してからブログを書いていて、普段は言えない本音を書いていました。病気の辛いことを両親に直接言ってしまったら心配かけるだろうし、面と向かっては言えない恥ずかしさもあり、間接的に見られてもいいという気持ちもあり書いていました。そんなブログには同病の患者さん方からコメントをもらい、よく慰めてもらっていました。本当に助かりました。今でも感謝しています。 結局、入学から4年後に大学を辞めることを決めました。この退学届けを提出した日が、初めての登校であり、最後の登校になりました。

Q.悔しい、苦しい気持ちを抱えながら過ごされていたのですね。次に、大きな転機となった「やなな」との出会いをお聞きします。『奇跡は段ボールの中に』の登場人物である「夏海」のモデルは塚本さんですが、やなな広報として活動されていました。やななと出会ったきっかけや当時の活動について教えてください。

A.ちょうど休学をしていた頃に「岐阜美少女図鑑」というフリーペーパーのモデルの活動をしていましたが、実は「やなな」も岐阜美少女図鑑の私と同じ号に載った同期モデルなのです。「やなな」やモデル仲間が出演する柳ケ瀬商店街のイベントの応援にしに来ていた私をプロデューサーの佐藤さん(登場人物では加藤さん)が見ていてくれて、岐阜美少女図鑑を介して「人で人を呼ぶ、街づくりの活動をしないか。」とお誘いいただきました。佐藤さんは「ひとひとの会」という街づくりの会を主催している方です。「ひとひとの会」がやななの運営をしていました。
 始めは、体調が悪くて不安でした。しかし私でもできることをやっていこうと決心し、任されたのが、「やなな広報」でした。ブログやSNSでイベント情報発信や、やななの情報集めなどをする役目をもらいました。活動に慣れてきたころ「やななゴーフレット」の発売でプレスリリースを一から任せてもらうことになりました。作業は佐藤さんに教えてもらいながらでしたが、なんとか仕事を終えることができました。その後にミーティングでプレスリリースが成功し新聞に掲載されたことをみんなに披露してもらえました。この経験は私にとってかけがえのないものになりました。“私でも人の役に立てる”。そう自信を与えてくれました。
 その後はやななたちの遠征には参加できないけれど、すこしでも役に立ちたい、働きたいと、私のできることで精一杯務めました。スタッフの皆と過ごした時間は充実して楽しかったです。もともと地元である岐阜は大好きでしたが、やななたちと出会ってから岐阜には魅力がまだまだたくさんあると教えてもらい、“岐阜の魅力を多くの人に知ってもらいたい”と思うようになりました。

〈「やななスタッフの活動を通して人の温かさを感じた」と語る塚本さん〉

Q.やななとスタッフの皆さんから大きな影響を受けたんですね。その後、やななは引退を迎えますが当時はどのような心境でしたか?

A.もちろん寂しいという気持ちもありましたが、(やなな引退イベントの)ステージに立つと、柳ケ瀬商店街を埋め尽くすほどの人(2日間で15万人)を目の前にして、やななに関われたことを誇らしく思い、胸がいっぱいになりました。でも、ステージでやななへの手紙を読み終えて、やななからそっと抱きしめられたらさすがに涙がこぼれてしまいました。 これまでのやななスタッフとしても活動を通して、人の温かさを感じました。体調の関係であまり表立って活動できない私のことまで、ファンの方々や柳ケ瀬商店街の人たちは覚えてくださり、商店街に来ると声をかけてくれて応援してくれました。
 今まで同世代の人のことしか見ていなかったけれど、やななとの活動で様々な世代の人たちが活動する新しい世界を知ることができました。柳ケ瀬には人情がある。「私の居場所ができた。」と分かったのです。

Q.今もなお柳ケ瀬商店街には人情が残っているんですね。やなな引退後、より力を入れて活動されていますが何かきっかけがあったのですか?

A.はい、このやなな引退から、私の挑戦が始まりました。きっかけはやななが引退する少し前、私の誕生日である2月17日頃に2週間の精密検査入院です。病気の痛みを止める電極を身体に埋める手術があることを知って、その手術をしてしまうと電池を埋め込むので、今後MRI検査ができない(電池が焼けてしまう)と聞いたので、手術を受けに行く前に他に病気がないか全部調べてしまおうと決断し入院しました。そこで、なんと“脳脊髄液減少症”を発見。私も家族も大喜び。赤飯を炊いてお祝いをしました。ちょっと変わっていますよね(笑)。我が家では何の病気か分からないよりも、「分かってよかった」と皆が思っていたためモヤモヤが晴れた気分だったのです。
 入院中はゆっこちゃんと佐藤さんがお見舞いに来てくれて、やななの手書きの色紙をプレゼントしてくれたり、外出許可がおりた時には、「岐阜美少女図鑑」のお茶会に参加し、モデル仲間から誕生日のお祝いケーキをもらいました。この手作りケーキがすごくリアルな“やなな顔のケーキ”だったので、「塚本明里=やななのスタッフ」と認識されていたことがなにより嬉しかったです。
 やななの引退直後から始まった脳脊髄液減少症の治療。ブラッドパッチ(人によっては失神するほどの痛みを伴う手術)を受けるという“新たな挑戦”。徐々に目の前が明るく輝き始めました。

Q.やななスタッフとして活動した経験が、現在の活動に繋がっているわけですね。 「可児市ふるさと広報大使」を務めていますが、可児への想いを教えてください。

A.やっぱり私を育ててくれた、ふるさとである可児市が大好きということが一番です。広報大使に選んでいただけたきっかけは、病気の説明をしに、可児市議会の保健衛生委員会に参考人として招致され可児市役所を訪れた日に、やなな広報の活動や病気の啓発活動のことを可児市長さんがご存知だったらしく市長室にお茶に誘われました(違うかもしれないけれど、そんな印象でした(笑))。市長さんに「可児市は好きですか」と聞かれ、私は「小さいころに川や山や田んぼで魚や虫を捕まえたりして遊んだ、そんな可児が大好きです」と答えると、市長さんはものすごく生き物や植物に詳しくて話は大盛り上がり。「近々、可児市で公式のSNSを始めるから広報をやってみない?」と直接依頼してくださいました。ありがたくお引き受けした次第です。
 ふるさと広報大使としては、SNSでの発信やラジオが主な仕事。市役所の皆さんは病気のことを理解してくれていて、ラジオ収録は私の自宅で行なって、私は寝ながら収録させてもらっています。病気でも役割をいただけ受け入れてくださって、自分のふるさとである可児の広報大使として活動できることがとても嬉しいです。

Q.最後に、活動を支えてきてくれた皆さんに伝えたいことをお聞かせください。

A.はい、いくつかあるのですが、まず“やなな”について。当時の私は体調のこともあって、やななと会えるのは週一回のミーティングと毎月第3土曜日イベントだけ。その日は何日も前から体調を整えて、柳ケ瀬に行けるように頑張りました。やななと触れ合えるのが大好きでした。やななに会うと“病気を抱えている塚本明里”ではなく、“等身大の自分”でいられる。とても幸せな時間でした。やなな、本当にありがとう。また、やななスタッフの皆に支えられたのはもちろん、ファンの方にもたくさんの優しさをいただきました。体調の面で時間が限られていることもあって、「こんな私がスタッフでいいのかな?」「役に立てているのかな…」と不安な気持ちがありました。ですが、第3土曜日イベントでファンの方から「あかりちゃん、今日来られたんだね」「あかりちゃんに会えて良かった」と必ず声をかけていただける。「こんな私でもいいんだ」と思えて、ファンの方々にも支えていただきました。皆さんのおかげでここまでやってこられました。ありがとうございます。 そして、可児市について。広報大使の活動を続けられるのは市役所の皆さんに私の体調を理解して支えていただいているおかげです。本当にありがとうございます。今後も可児の魅力をたくさん発信していきます。
 それから、やななが岐阜を愛していたように、私ももっともっと岐阜を愛し、全力で皆さんに喜んでいただけもらえるよう精進して活動して参ります。
 他にも、非常勤講師を任せてくださる母校にも感謝です。
 病気を診付けてくださったお医者さま、治療をしてくださるお医者さま。
 両親・家族・・・・
 私を導いてくださった、すべての皆様が“私の力の源”です。
 ご当地タレント・モデルとして、病気の啓発やバリアフリーな社会への発信者として、人で人を呼ぶ街づくりの担い手として、頑張ってまいりますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

——— 地元・岐阜への愛をお聞かせいただきました。塚本明里さん、ありがとうございました。